2017-03-15 第193回国会 衆議院 内閣委員会 第4号
私の長男が生まれたときは逆子でございまして、私も実は逆子でございまして、私が生まれたときは家の中で産婆さんに取り出していただきました。その逆子を、最近では、いわばバルーンを膣内に入れたり、三日ほど、すごいことをしておりまして、それを見まして、いや、私、男ではとても我慢できないな、男でよかったなとそのとき思いました。それほど女性は、出産するときに、まさに命をかけて頑張っている。
私の長男が生まれたときは逆子でございまして、私も実は逆子でございまして、私が生まれたときは家の中で産婆さんに取り出していただきました。その逆子を、最近では、いわばバルーンを膣内に入れたり、三日ほど、すごいことをしておりまして、それを見まして、いや、私、男ではとても我慢できないな、男でよかったなとそのとき思いました。それほど女性は、出産するときに、まさに命をかけて頑張っている。
これは最大のポイントですが、調査だけでは恐らく収まらない、むしろ政府が産業の再編成の産婆役を務めるべきだと私は思っておりまして、これは民間の方から様々な異論が、政府に箸の上げ下ろしまで指示されたくないというような反対論があることを承知の上で、しかしそれをやらなきゃ駄目なんだと私は思っております。
かつて私も産婆さんに取り上げていただいたということをよく母から聞きましたけれども、昭和二十三年、助産師による分娩介助が九〇%でございましたそうです。医師による分娩がわずか六・一。一九八〇年には助産師が四・五%、医師による出産が九五%と、全く逆転してしまっております現状があります。
だから、非常に若い御夫婦なんかで正にそういうところにむとんちゃくなこともあって、昔は、御家庭で産婆さんが来られて出産というようなことで、ずっとそういう皆さん方の先祖代々の知恵みたいなものが受け継がれてきた、そういうことも実はあるんだろうと思いますが。
こういう医師の実態が一方にあり、では、その昔、お産婆さんといった助産師さんたちが取り上げてくださる出産、今、赤ちゃんが百人生まれる中の一%くらいでありますが、この助産師さんたちも、昨年四月の医療法の改正で、今度の四月から非常に開業がしづらくなります。助産師さんたちが開業するとき、嘱託医と病院と両方連携しなければいけないというのが医療法の十九条で決まりました。
と「私が産婆です。私が生ませませう」と言つたのは、 さつきまでうめいてゐた重傷者だ。 かくて暗がりの地獄の底で新しい生命は生れた。 かくてあかつきを待たず産婆は血まみれのまゝ死んだ。 生ましめんかな 生ましめんかな。己が命捨つとも。
○津田弥太郎君 ちなみに私は、実家は岐阜なんですけども、家で、当時は産婆さんって呼んでたんですが、産婆さんの手で夜中の十一時五十五分ごろ生まれたんですが、たまたまぼんぼん時計が十分進んでたもので、誕生日は本当は五月四日だったんですが、五月五日になったと。夜中に自然に生まれたということでございます。まあそれはどうでもいいんです。 資料を見てください。
私自身というか、こんな六十になる人間が言うのもおかしいんですが、いわゆる産婆さんに取り上げられた人間として、助産師の活用は非常に大事なポイントだろうと思います。
それで、日本の場合は、里帰りお産とかありましたし、あるいはお産婆さんというのが非常に伝承の、母性に対して伝える役割を果たしていたと思うんですね。今、乳腺を開くための乳房のマッサージのサービスすらありませんですしね、その辺を是非、産婦人科、小児科学会が連携してプログラムを提言していただきたいと思います。
○南野国務大臣 産婆という業務をするときにも、やはりそのような業務の中身はありました。 したがいまして、社会が変わるたびに講習またはいろいろな研修などを積み、同じ産婆という名称でのライセンスを取った人たちもアップ・ツー・デートの教育は受けているところでございます。
産婆と呼ばれていた時代には、穏婆とかもっといろいろな名称がございました。そういうような意味から現代的になったのが、産婆から助産婦になり、助産婦から今助産師という名称に移行いたしております。 産婆から助産婦になったときには、大きな喜びを感じていた我々の先輩はいっぱいおる。そのように、名称が変わるたびにその役割ということへの社会的効果ということも見られているように思っております。
○山内委員 大臣は助産師ですから、私たちの田舎ではというか、標準語なんですかね、産婆さんというのは。 つまり、母親のおなかにいるときから、元気で丈夫な子供として生まれてほしい、そして、母親以外に最初に知り合う人なわけですよ。
難産でありながらも何とか産み落として、産婆さんとしての一翼を担いたい、そんな覚悟も持っているわけでございますが、いろいろまた御示唆をいただければと思うわけでございます。 そして、本案がうまくいくか否かというのは、私は二点だと思っております。 一つは人材の育成。
その当時、女性の仕事というのは大変限られておったんですけれども、母親が若いときに看護婦それから産婆の免状を持っておって大変珍しがられたんですけれども、ずっといわゆる昔の看護婦さんの歴史を眺めると、日本の場合と外国の場合と非常に違うんですね。 それからもう一つ、私が戦後びっくりしたのは、アメリカの軍隊の中における看護婦さんというのは将校ですよね。将校の方がたくさんおるんですよね。
私は、やはりそのときに、これは一番新しい、木村剛さんが、竹中さんが出した金融再生プロジェクトの裏側を書いたところの一番最後の方に出てくるんですけれども、産婆屋、つまり仲人役というか、そういうものに徹するというふうにしないとこの産業再生機構というのは余りいいものとは思えませんねということを書いておられるんですね。
産業再生機構はその中で何の役割を果たせるかということになるわけでありますが、こういう大きな、全体が変わっている中で、その変わっていく、先ほど再生という言葉は好かないとおっしゃいましたけれども、その再生という言葉でないとすれば、もう一回生まれ変わっていくためにはどういう仕組みが必要か、どういうその生まれ変わりの産婆役を果たせるかと。
戦前から産婆さんとかいうような形で助産婦さんが続いてまいりましたが、戦後五十年以上の歴史を見てまいりますと、まさに開業助産婦さんをこの世から抹殺していく歴史、こういうふうにも見ることができるのであります。 戦後、進駐軍、占領軍がやってまいりまして、アメリカ式のナーシングといいましょうか、看護の方法を取り入れまして、そして三婦を統合する。
そうした中で、なぜこういったことになったかといいますと、正常なお産は産婆さんがする、異常なお産、危機にあるお産は産科医がするというすみ分けが戦前はありましたけれども、お産婆さんをすごくおくれたものだというふうにみなしたGHQの意向によって米国をモデルとした施設内分娩へと急速に移行していった結果が今のような状況になっているわけです。
日本看護協会は、昭和二十一年に日本産婆看護婦保健婦協会として発足いたしました。翌年の昭和二十二年に保健婦助産婦看護婦令が公布され、産婆規則の一部改正で「産婆」が「助産婦」となり、昭和二十三年には保健婦助産婦看護婦法が制定されました。これを機に昭和二十六年に現在の名称である社団法人日本看護協会となっております。
例えば、以前は助産婦は産婆と呼んでいた時代がございます。それから助産婦という名称になりました。時代とともに名称も変わっていくということはあろうかと思います。 私たちは、このたびは、看護婦とか保健婦は何々する「者をいう。」と書きますが、助産婦に関しましては「女子をいう。」と女性を特定しております。
助産婦の中には地域でぜひ働きたいというような助産婦が非常に多くおりますので、ぜひそのような枠をつくっていただけるとその役目を果たせるという、昔の産婆さんのように、身近にいつでもリプロダクティブヘルスについて相談できる人がいるということは非常に重要だと思います。
そして我々に要請された六大改革のかなめが行政改革であり、新たな日本の産婆役としての気概を持って、断固としてこれを実行せねばなりません。 昨年十二月にまとめられた行政改革会議の最終報告では、内閣機能と総理の指導性強化策を初め、中央省庁体制の抜本的再編、独立行政法人制度など、二十一世紀の新たな行政システムの構築を目指したデッサンが示されております。
それは地域に産婆さんなどいらっしゃいますので、産婆さんという言葉はいいのかしら、何とか補助員の方とか……(橋本内閣総理大臣「助産婦さん」と呼ぶ)助産婦さんですね。